最後のKiserian訪問。
- 2010/02/10(水) 17:48:37

2006年から1年間ボクがお世話になったKiserianという町。
生まれて初めてろう者と関わり、手話という言語に出会った町。
ボクのルーツともいえる町。
今回の滞在時、これまで何度か訪問してきたKiserianもこの日で最後。
そんな実感は少しもないままに、最後にふさわしい人物に再会することができた。
以前、ボランティアとして勤務していた小学校の生徒Kajogoとの再会。
年齢はすでに20歳に近いものの、
当時の学年から考えればまだ小学校に通っているはずと思っていた。
ところが、すでに学校は中退してしまったという。
現在は近所の農園で働いているという。
ここから、彼はボクが言葉を挟めないほどに、
ボクが日本にいた2年間、彼の人生がどのように変化したのかを話し始めた。
1年前に彼と妹の学費を面倒見てくれていた父が他界してしまったという。
誰かが働かなければ、家族が生活していくことはできなくなった。
自ら学校を辞めることを決めた。
彼の妹も同じくろう者で、彼女の名前はFridah(折り鶴をかぶってる子)。
2年前の、ボクの教え子である。
「先生、覚えてるでしょ?」
「Fridahはすごく頭がいいんだ。おれよりもずっと」
「だから、彼女には学校での勉強を続けてほしい」
そんな彼の言葉に、ボクは黙って目を傾けるだけだった。
彼のような境遇の人にはこれまでも何度か出会ってきた。
毎日、毎日、安すぎる給与のなか何時間も働いて家族を支えようとする人。
そのために学校を辞めざるを得なくなって、
ケニアの強烈な学歴主義のために、より一層生きづらくなってしまったり。
確かに高学歴であるほどのその人のもつ知識やスキルは大きなものかもしれない。
でも、それは学校でしか身につけることができないことなのだろうか。
そとの社会で学ぶことができることは少ないのか、
低賃金になってしまうほど価値の低いものなのか。
Kajogoは確かに学校を辞めてしまったけれど、
2年前の彼からは想像もつかなかった変化を見せてくれた。
同時に、昔と変わらず優しく謙虚な性格も。
彼はずいぶんと口話が上手になっていた。
口話というのは、相手の口を読み、音声言語によってコミュニケーションをはかること。
手話言語集団としてのろう者がろう者らしくいられたらいいのに…と考えるボクにとって、
ろう者が口話で話す、話さないはあまり関係のないことだけど、
彼自身の成長のなかで、その上達ぶりはもっとも大きな変化だった。
もともと両親の仕事を長く手伝っていたために学校に入るのが遅れてしまった彼。
2年前の彼といえば、15歳を超えていたが学年は小学校1年生。
妹のFridahの方が彼よりも上級生だったくらい。
英語なんてほとんど理解できず、2年生への進級も危うかった。
大丈夫か?なんていつも心配されていた。
当時のボクのコミュニケーション能力で、彼と多くを話すことはできなかったのに、
それが今では、時間を忘れるほどに色々な話をできるようになれた。
それはボクの手話が上達したからではなくて、
彼が口話によってボクらの手話会話をフォローしてくれていたから。
彼の成長のおかげで、ボクは彼の言葉をたくさん知ることができた。
Kajagoをよく知るろうの友人によれば、もともと若干の聴力をもっていたのかもしれない。
それに職場のろう者は彼一人だけだから、仕事を続けるために身につけていったのかもしれないと。
もう先生なんかではないのに、
最初にボクの顔を見たとき、ボクのことを「先生!」なんて言ってきた。
今となっては、ボクのほうが彼から学ぶばかりだ…
この2年間の間に、Kajogoを取り巻く環境は困難なものとなった。
でも彼はそのなかで彼は、できることをできる範囲で実践し、確かな進歩を得ていた。
帰る時には、彼の現在の境遇にも関わらず、あまり不安を感じないままに帰ることができた。
むしろ彼の成長を感じることができた満足感すらあったような。。。
ボクの可愛い元教え子のFridahは、以前と何も変わらずに学校で楽しく勉強をしている。
Kajogo、ありがとう。
母が起こした変化。
- 2010/02/06(土) 19:59:01

昨日、金曜日をもってNairobiを中心としたろう者の職場訪問を終了。
最後は非常にお世話になった小さなろう学校への再訪となった。
手話の辞書を手作りした教頭先生(聴者)。
彼のご厚意により、この日は大工さん(右から2番目)、
近所で農園を営む女性(左から2番目)、
美容師さん(左)への聞き取り調査を行うことができた。
写真左の美容師の女性。
英語の読み書きもできず、ケニア手話もほとんど話すことができない。
教頭先生によれば、幼いころからずっと家のなかで隠されるように暮らしてきたという。
貧しいことが原因ではなく、
一度も学校に行くこともできずに今まで過ごしてきた彼女。
「どうやって美容師の技術を身につけたの?」と聞いても、
教頭先生が代わりに「おそらく目で見ながら学んだのだろう」と答えてくれるだけだった。
彼女はシングルマザーで、ろうの息子が一人いる。
こんなにもコミュニケーションが少ないのに、
どうしてシングルマザーになったのだろう…と想像すると、胸が詰まるような理由が浮かんできた。
その正否を確かめる術はボクにはないけれど、
あったとしても確かめることはできなかったかもしれない。
この日、ボクのスケジュールは超過密で、
このときは作業を進めるだけで、あまり一人一人に対して深く考える余裕もなかった。
帰りのバスのなか、あることに気がついて思わず顔を上に向けた。
調査パートナーのEnidが「ん??」なんて視線を向けているのもお構いなしに目頭が熱くなった。
その次には狭いバスのなかで派手に「よっしゃ!」とガッツポーズ。
何も学ぶことができなかった。
誰の言葉も理解することができない。
それでも、彼女は明らかにひとつの「変化」を起こしていた。
彼女のろうの息子。
彼は今回訪問していたろう学校の生徒なのだ。
一度も外の世界と交わることなく大人になったお母さん。
でも、その息子は今、小さなろう学校でたくさんのクラスメイトに囲まれながら過ごしている。
学校で勉強もしている。
すでにケニア手話を話している。
友達もたくさんいる。
「あの日本人とEnidは夫婦なんじゃないか?」って冗談も言いながらケラケラ笑っていた。
そのすべてはお母さんが起こした変化なんだ。
お母さんにとって、息子の存在そのものが外の世界との接点となっていた。
ろう者を「手話を第一言語とする人」という定義で見るならば
彼女はそもそもろう者ではないのかもしれない。
ただ、訪問活動の最後に、とても素晴らしい「聞こえない世界の住人」に出会うことができた。
彼女の起こした変化を発展させられる次の変化とは何か。
「ろう者がろう者らしく生きられる社会」をキーワードにしながら模索していきたい。
その道標をボクに与えてくれたのは、
これまで出会ってきた多くのろう者たちであり、この日出会った偉大な聞こえない母。
「聞こえない世界」という素晴らしい世界に出会えたことを幸せに感じられる1日だった。
Haraka haraka haina baraka...
- 2010/02/01(月) 05:39:06

先日、訪問してきた小学校。
その学校の盲ろう児向けのクラスで働くろうの女性。
彼女はケニアの教育省が提供する盲ろう児教育の研修を受け、
この学校ではもう10年以上も働いているという。
見えなくて、聞こえない子。
いったいどうやってコミュニケーションをとるのだろう。
写真の、彼女の後ろにある画用紙。
そこには各生徒がどんな感情をどのように表現できて、
どんな活動ができて、ここで何を学んだのかなどが詳細に書かれていた。
彼らの感情はその表情や行動によく表れているという。
アメリカのろう者協会には
「ろう者とは観察力の優れた人間である」と主張するところもあるほどに、
ろう者の観察力はすぐれていて、、、
もしかして、盲ろう者のパートナーとしてろう者は最適なのでは?
なんて、少し思ったりもした。
この日ボクはろう者の男性と一緒にここを訪問し、
彼女は一人の生徒を傍らにおきながらボクらの訪問に応じてくれた。
彼女がおもむろに生徒をボクら3人の中心に立たせた。
その子は一瞬、戸惑ったように立ちつくしたものの、
すぐに、迷う素振りもなく、彼女のそばに戻っていった。。。
それを見たボクの方が、立ちつくし、言葉を失ってしまった。
目も見えず、音も聞こえず、
どうしてボクらに寄り道することなく彼女のもとに戻れたのだろう…
彼女はこう説明してくれた。
「私にも本当のところなぜなのかわからないの」
「でも、音の聞こえないろう者は目が優れているでしょう?」
「目の見えない盲者は耳が優れているでしょう?」
「もしかしたら、この子の鼻は誰よりも優れているのかもしれないわね」
盲ろう者の生きる力を垣間見たような気がした。
「この子にはシャワーの浴び方、ご飯の食べ方、トイレの行き方とかを教えているの」
「まだまだ勉強できるところまでは進んでいないけど、この子は確かに成長しているの」
「スワヒリ語には“急いではだめ”ということわざがたくさんあるでしょ?」
「この子は確かに成長している。人よりは遅いけどね」
「ときにこの子には知的障害もあると言われたりもするわ」
「でも、誰にこの子の成長を急かすことなんてできるの?」
「この子は、今の、自分のペースで確かに成長できているのよ」
「私にはわかるもの」
「この子の感情表現にはちゃんと規則がある」
「それはこの子がしっかりとした考えを持っている証拠じゃないの?」
その男の子は確かに、その感情を体を使って表現していて、
その子の先生は、そこへのアクセスをもっていた。
ボクにはその子の感情表現へのアクセスがなかった。
おそらく社会の大多数がその子の感情表現へのアクセスをもっていない。
そのために、その子のことを理解することができなくて、、、
理解できないと、ときにありもしない障害をかぶせられてしまうことも。
他の多くの人とは違って特殊ではあるけど、
確かな規則性とともに感情を表現する盲ろうの少年。
その少年の感情にたどり着くことのできないボク。
ボクと彼との間に確かに存在する障害という壁。
でも、それはどこにあるのだろう。。。
ボクに?少年に?それとも両者をつなぐことのできない社会に?
この日記のタイトル。
スワヒリ語のことわざで「急いでもいいことなんてないよ」という意味。
ルームメイトのケニア人によれば、、、
モラルの再認識。
- 2010/01/30(土) 01:02:04

この日訪問したのは近所の公立小学校。
この学校の特徴は「盲ろう」の生徒を受け入れているということ。
「盲ろう」というのは字のままに
「見えなくて」「聞こえない」人のこと。
手話も見えない、声も届かない。
そんな彼らに対する教育方法は世界中のビッグチャレンジとなっている。
この学校でも、未だにその教育方法は確立されていない。
「日本ではどうやって教育しているの?」と聞かれたけれど、
それに答えられる知識を持っていないことが少し恥ずかしかった…
ここでは一人、ろうの女性が働いている。
彼女のことについてはまた今度、書いていきたいと思う。
これまでいくつも、ろう者が働く職場を訪問して。
それぞれの場所で数枚ずつ、記録として写真を撮ってきた。
毎回欠かさずに「写真を撮ってもいいですか?」と聞いて、
快諾してくれた人だけ、その仕事振りなどを撮影させてもらってきた。
それがフィールドワーカーとしてのマナーだと思ってきたから。
実際にはこれまで全員が快諾してくれた。
これに図に乗ったのがマズかったんだろうな。。。
あまりに多くの人に快諾されてきてしまったためか、
それとも「盲ろう」の人に初めて出会ったことで、配慮に欠けてしまっていたのか…
今回の訪問時、気がつけば片手にカメラを構えていた。
それに気がついた学校のスタッフから
「この子たちの親は、自分の子ども(盲ろう児)が写真に撮られることを嫌がるんだ」と。
「すみません。まだ一枚も撮っていませんから…」なんて苦し紛れの言い訳。
いつからこんな無礼者になってしまったんだろう。
ケニアにやってくる外国人が何も断りもなく、
彼らを撮影する姿に何度も嫌悪感を抱いてきていたはずなのに…
気がつかない間に、ボクも同じことをしようとしてた。
今、思い出しても自分の非常識さに嫌気がさしてくる。
まだ後戻りができるところで気付かせてくれたことに感謝。
それでもホッとなんてする余裕もなくて、背中に変な汗をかいたのを感じた。
かつての日本でも同様のことがあったらしい。
ケニアでは今でも一部に「障害者を隠す」という習慣があって。
それは家族の一員のなかに障害者がいることを恥ずかしく思う健常の家族によるもの。
この学校の生徒のなかにも、
以前はずっと家のなかに隠されていた子もいるらしい。
そんな子たちの両親に対し、
「むやみに子どもを人目にはさらさないから…」というのが
子どもを学校で引き取る際の条件だったという。
これは、この学校にとっては絶対順守の約束。
知らなかったとはいえ、
この信頼関係を破壊しかけた自分が情けない。
帰国が迫ってきた焦りがあるのか。
写真を撮ることは当たり前のことなんかじゃなくて、
「いいよ」って、彼らの心遣いの上に成り立つ特別なことなのに…
いまさら気がついた。
来週からは映像の記録にも入る。
承諾を得られなくて強引に進めるくらいなら、からっぽのまま帰ることを選ぼう。
「施設や備品、スタッフの写真なら何枚でもいいからね」という優しさに甘えて。
上の写真は生徒たちが勉強をする校舎の写真です。
この学校で働いているろうの女性。
とても素敵な方でした。
教育アクセスの尺度。
- 2010/01/29(金) 07:23:30

去年の12月のある日。
ケニア全国ろう者協会の会長からメールが届いた。
ケニアの大手新聞社STANDARD紙をすぐに見てくれ!
ろうの大学生がとうとう卒業した!
協会として彼女を祝いたいんだ!
その記事のPDF版を見つけました。
幼いころに病気で聴力を失った彼女は、
大学に入学後、通訳ヘルパーとともに4年間の勉強を見事に終えた。
ときに携帯電話のメール機能を使ったり、自分の主張を書いたり。
友人たちにも助けられながら奮闘した大学4年間。
現在では大学院進学のための奨学金も獲得して、MBA取得を目指しているという。
ケニアのろう者の若者のなかでもっとものりに乗っている彼女。
気が早いと思いつつも、
彼女がリーダーシップを握るころのケニアのろう社会がとても楽しみ。
彼女は個人的にヘルパーに手伝ってもらえた。
その人は家族関係の人だという話も聞いたことがある。
では、専門の通訳者にお願いしようとすれば一体いくらかかるのだろう。
手話通訳者の通訳者の日給相場は5000シル、半日は半分の2500シル。
もちろん、もう少し安い場合もあるし、もっと高い場合もある。
ボランティアでは。。。4年間も他人がつきあってくれるのだろうか。
この国に、1日5000シルを負担してまで大学に通えるろう者がいるだろうか。
この記事を紹介してくれたケニア全国ろう者協会の会長。
彼も現在、ナイロビ大学の大学院で開発の勉強をしている。
去年、入学してからずーっと大学と闘ってきた。
大学側の負担で通訳者を手配することを求めて。
考えてみれば当然のことで、
入学させておいて教室に座らせているだけか?という考え方もあるけど、
そもそも教育機会は誰にも平等でなくてはならないはずで。
教育へのアクセスは、教室までの道のりではなくて、
先生の言葉へのアクセスであるはずなのに。
今では多くの大学にもある車いす利用者向けのスロープ、点字パネル。
それを障害者のポケットマネーで取りつけたのだろうか?
大学は障害者に対して、スロープの通行料を請求するだろうか?
NO
それにもかかわらず、
大学はろう者に対して手話通訳者を自己負担しろと言えるのだろうか?
会長の話によれば、なんとか手話通訳者の手配を認めさせたという。
この頃は彼と連絡をとっていないので、
本当に手話通訳者を手配てしくれているのか定かではないけれど…
日本の山形県では、
「聴覚障害者に大学講義を提供するには?」というデモ講義が行われた。
ここまでスロープも点字も普及し、
なぜ聴覚障害者のための福祉レベルはこの程度なのだろうか。
なぜ、もっと早い段階から普及が始まらなかったのだろうか?
ふと「ボクの通う大学は、ろう者のために手話通訳者を無償手配してくれるかな?」と。
先日、一緒に住んでいる日本人のルームメイトと
日本人ろう女性のバックパッカーと一緒にエチオピア料理を食べに行きました。
ボクの友人はろう者とのマナーなんて知らなかったはず。
ボクも自分ですべて通訳するつもりでいたので、何も教えてはいなかった。
夕食後、彼はだまってケータイをいじっていた。
その後「文字なら大丈夫だよね?」ってニコッとしながら、
彼女に自分のケータイを見せた。彼女もニコッとしていた。
その後、今度は彼女がそのケータイに何かを打ちはじめた。
2人がどんな会話をしていたのかはわからない。
ただ、ごく自然に発生したその光景にひどく感動してしまった。
自然に生まれるものなんだ。
その心遣いが反映されていない今の社会が不自然なんだと。
自慢のルームメイトだ。




